鏡開きだ!鏡もちを食べましょう。
- 米ラボ
ようやくお正月気分が抜けてきた今日この頃、covid-19の陽性者/重症者数も増加傾向にあり、一都三県で緊急事態宣言が発令されました。なかなか気分も晴れないものです。
感染された方々におかれましては、早期回復されますよう、心よりお見舞い申し上げます。
そんな中、昨日1月11日は成人の日でした。今年は成人式もオンラインで実施されたところが多かったようですね。
私を含め、成人式を懐かしいと思う世代にとっては、成人の日といえば1月15日でした。
これは、元服の儀を小正月後の1月15日に行っていたからという理由がありました(もっとも、旧暦の1月15日ではありますが)。
2000年以降は1月第2月曜日になったことによる3連休で、なんとなくこの連休まで正月気分でいられますよね。
鏡開き
さて、1月11日に話を戻します。
この日は知る人ぞ知る、鏡開きの日です。
鏡餅を神棚や床の間から下ろし、刃物を使わず木槌などでお餅を割っていただきます。
鏡餅とは、形や名前からもわかる通り神器の鏡を模していて、年神様の依り代となっています。お米の昔話を紐解くと、やはり神事とお米が結びついていることが多いですね。
この風習は、日本家屋に床の間ができた室町時代以降、江戸時代初期あたりから武家中心に始まったとされています。
最近こそ、鏡餅形のパックになったミニサイズのお餅がコンビニなどで入手できますが、数十年前の私の生家では、大きくて重い鏡餅を床の間にお供えしており、お正月を過ぎると表面にヒビが入って硬くなって、そもそも刃物では切れない代物になっていたことを思い出します。
さらに言うと、鏡開きは松の内が明ける1月7日に行い、鏡餅の破片を七草がゆに入れていたような気がしています(記憶違いかなぁ?)。
鏡開きの日にちを調べると、多くの地域では松の内が明けた1/11に行うとあります。ここで疑問があります。
松の内は1月7日までですが、なぜ1月8日に鏡開きをしないのでしょう。1月8日〜10日の空白の3日間に何があるのでしょうか。
松の内
空白の3日間の謎を解く前に、松の内について掘り下げます。
松の内が明けたら門松をしまい、年始のご挨拶や年賀状は寒中見舞いと名を変え、正月の終わりを感じます。しかし伝統的には、小正月1/15までを松の内としていたようで、現在でも地域によっては、15日まで松の内と呼ぶとのことです。そして、左義長(どんど焼き)で門松や書き初めを燃やして、その火で焼いたお餅を食べます。ここでもお餅です。
左義長(どんど焼き)の準備
15日に松の内が明けて、次の満月となる20日に鏡開きを行なったそうです。やはり松の内明けに鏡開きは今と同じです。
では、松の内が7日に決まったのはなぜでしょう。
実はこれは当初は江戸城下に限られた話で、寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)までと定められました。この時、同時に左義長も禁止されていることから、火祭りによる火災予防という目的もあったという説もあります。
このようなことから、現在でも関東以外の地域では15日までが松の内と呼ばれることが多いのです。その地域では、今でも鏡開きを20日に行うそうです。
蔵開き
鏡開きが1/11に行われる鍵は、江戸時代、商家が新年吉日に初めて蔵を開く「蔵開き」にありました。
商家では1月2日の初荷の出入りを蔵開きとしていましたが、諸大名はお米の蔵を1月11日に開き、蔵開きとしていました。
当日はお餅を割って雑煮にして食べたそうで、まさに鏡開きそのものです。
1/7の松の内が明けて、1/11の蔵開きに合わせて鏡開きをする。これが、現在私たちにも受け継がれている伝統ということになるのでしょう。
この「蔵開き」という言葉は、現在では酒蔵を開くことを指すのが一般的かと思います。
大きな酒樽のふたを木槌で叩いて開けることを鏡開きと言いますし、こちらも神事とされています。
お酒もお餅も、お米。何かとお米と神事を結びつけて、五穀豊穣に感謝し祈願成就を願うことが、私たちのアイデンティティなのかもしれません。
今年は特に新型コロナが落ち着くことを願いつつ、お米、お餅、お酒を味わいたいものです。
ライター:凱風快晴