昔からお米は検査を受けています(その1)
- 米ラボ
日本人の主食はお米です。
美味しいお米を食べるために、つくったお米を検査することは、今も昔も欠かせない作業です。
日本の米作りの主流は田んぼに水を張り、稲を栽培する水田稲作です。
その起源は弥生時代まで遡るとされています。水田稲作の発展と共に、米を中心とした食料生産が安定していったことから、古代の日本では集落からムラへ、ムラからクニへと高度な組織化が形成されていきました。
お米は貨幣。ゆえに厳格な検査を。
高度な組織の中には階級制度が形成され、国を治める者が国民に田畑を与え、国民は税として貨幣ではなく米を納めていました。古代飛鳥時代の「祖」、平安時代の「荘園制度」、安土桃山から江戸に続く年貢の「石高制度」などの税制がこれに該当します。
お金の代わりに納税される米には当然価値がなければいけません。この価値を維持するために、米の品質も厳格に検査されていました。
江戸時代の幕藩体制時、年貢米は米俵一俵ずつ丹念に検閲していました。
米が乾燥不足だと保存時に腐ってしまうため、2、3粒を噛み砕き乾燥状態を確認したり、米俵から一握り米を掴み、籾殻、砕けた米、くず米などの割合を何人もの検査官が目視で確認したりしていました。
検閲で不合格になると品質向上のため、米の精製を再度行わなければならなかったのです。
しかし明治時代になり、明治6年の税制改革(地租改正)により国家から国民へ対する税制は貢米制から金納制となりました。
これにより米に対する取り締まりがなくなり、米の品質は一気に悪化していきました。
そこで、米穀取引関係者が品質の信頼回復のために同業者間で組合を結成して自主的に検査を行うようになりました。同業者組合がその数を増やしていくことで、米穀市場は発達して、産地間による市場競争が生まれていきます。
その結果、市場制度の統制を図る目的として明治34年大分県が全国初の県営による米穀検査を開始しました。
米穀の県営検査は市場競争のさらなる発達により普及していき、昭和初期になると全国都府県で県営検査が実施されることとなりました。
太平洋戦争が始まり、戦時となった日本は昭和17年に食糧管理法が施行されます。これにより農民および地主は、自己保有米以外全ての米麦を政府に売り渡すことが定められ、この時、米穀検査も県営検査から国営検査へと変わりました。国民は配給統制を受け食糧を国が管理することとなったのです。戦時中は食糧不足の為、この頃の検査は品質よりも数量の確保が優先されていました。
ライター:九四六四六四九