お米と日本の歴史1〜弥生時代の田園風景は何色だったのか
- 米ラボ
米は、人類を最も繁栄させた作物です。
単位面積当たりの収量、栄養価、害虫被害の少なさといった要因により最も多くの人を養うことができる穀物であり、稲の栽培は人類史において大変重要な発明だといえます。
日本への伝播
その稲作は、現在の中国湖南省、長江流域で今から約1万2千年前に始まったと考えられています。
そこからインド、南アジア、東南アジア、そして日本へと伝わりました。日本へ伝わった時期は約6000年前の縄文初期または3500年前の縄文後期という説があり、ルートも中国から北九州、中国から朝鮮半島経由で北九州、中国から宮古島経由で九州南部など諸説あります。
いずれにしても最初は畑で陸稲(熱帯ジャポニカ種)を栽培し、水稲(温帯ジャポニカ種)の水田稲作は後に伝播してきたようです。
陸稲
当初は、畑で栽培する「陸稲」が伝来しました
ちなみに、中国の北方にも稲作は伝わりましたが雨が少なく稲の栽培に向かなかったため、米の代わりにアワやキビなどの雑穀が栽培されました。
これら雑穀類も栄養価は比較的高いため、この地域の主食になりました。ただし、粒のままでなく粉に挽き、こね、延ばしてから食べました。
これが世界最初の「麺」の誕生でした。
弥生時代の田園風景
さて、九州から上陸した現代のような水田稲作は、少なくとも弥生時代前期である2300年前には現在の青森県にまで伝わっていました。本州に田園風景が広がっていたはずですが、私たちの想像する黄金色の田園ではなかったようなのです。当時作られていた稲は野生種に近い「赤米」でした。
そのため、弥生時代の実りある田園風景は、写真のような赤い景色が見られたことでしょう。
赤米が一面に広がる田園風景
赤米は明治時代以前には比較的多く栽培されていたようです。現在でも福岡県糸島市などで栽培されていますので、赤い田園風景が見られます。
平地の少ない日本において一度水田を作ってしまえば連作ができること、梅雨があること、夏の日射量と高い気温などが、温帯ジャポニカ種の生育条件に良く合致していたため定着しました。これにより、日本でも一人当たりの摂取カロリーが向上し人口が急増しました。
『お米と日本の歴史2』へ続く
ライター:K.Okawa
参考文献:『137億年の物語』クリストファーロイド・野中 香方子 訳(2012, 文藝春秋)/『稲 品種改良の系譜』菅洋(2005, 法政大学出版局)/『田んぼの忘れ物』宇根豊(1996, 葦書房)